好嫌。

人間には誰しも好き嫌いというものがあって、それは単に食べ物に関することだけじゃない。人間同士の関係にも各々の好き嫌いというのもが少なからずある。となると、万人に好かれることなど不可能で有り得ない。

誰かのことを恋愛という形で好きになったら、その誰かのことを好きな他の誰かから嫌われるかもしれない。

例えば、Aくん(♂)、Bさん(♀)、Cさん(♀)がいたとしよう。AくんはBさんのことが好きで、Bさんは特にAくんが好きというわけじゃない。でもCさんはAくんのことが好きであり、AくんはCさんのことは好きというわけじゃない。

そう、所謂、男女の三角関係というやつだ。この場合、BさんとCさんが特に親友でもなければ、友達でもないならば、AくんがBさんと付き合おうが、Cさんと付き合おうが問題無い。

しかし、BさんとCさんが親友だったらどうだろうか。AくんがBさんに好きと伝えたら。Bさんは親友のCさんがAくんのことが好き、と知っているので付き合わないだろう。そして、BさんとCさんは親友同士だから、なんとかCさんをAくんと付き合わせてあげたいと思う。

そして、BさんのキューピットによってAくんとCさんがめでたく付き合うことになったら、ハッピー。Cさんは好きなAくんと付き合えるし、Bさんも親友のCさんが好きな人と付き合える。Aくんはまぁ、Cさんのことが好きになった、ということで。

しかし、AくんはとにかくBさんのことが大好きで、Cさんは好きじゃないとしたら、Bさんのキューピットも意味無く、AくんのLOVE ATTACK FOR Bsan。すると、CさんもAくんは親友のBさんのことが好きなんじゃないか、と思う。

そう、Aくんのことが好きなCさんは、そのAくんがBさんのことを好きだと思い、Bさんに嫉妬する。その嫉妬心はBさんとの仲にも影響。気まずい。自分の好きな人は自分の親友のことが好きなのだから。又、Bさんも自分の親友が好いてる人は自分のことを好いている。やはりCさんとの仲は気まずいだろう。

すると、CさんはBさんが嫌いになっていくかもしれない。

否。

Bさんはなんとかキューピットとして、AくんがCさんのことを好きになるよう頑張る。

CさんはBさんに「AくんはBさんのことが好きなんでしょ?」と。まぁ親友なのに“さん”付けってのは無いが。わかり易く。Bさんは「わかんないけど、CさんがAくんのことが好きなら、AくんがCさんのことが好きになるよう頑張るよ」と。

Bさんのお節介が!って思うかもしれないが、親友ということでそのお節介もありがたいものに。

しかし、BさんはAくんをCさんのことが好きになるようするため、Aくんとお喋り。これをAくん的心理で言うと、「Bさんが積極的に俺と話してくれてる!」。そして、Cさん的心理で言うと、「BさんはAくんがあたしを好きになるようにって言ったのにAくんと仲良く話してるじゃない!」。Bさん的心理を客観的に言うと、Aくんと仲良く話しているが、BさんにAくんを好き、という気持ちは無いため、Cさんのため!と思い、頑張っているのである。

そこでCさんが「BさんはAくんとあたしが付き合えるようにって言ったけど、Aくんのこと好きなんじゃないの?」と。そしてCさんはBさんに嫉妬。Aくんと仲良く話すBさんを嫌いになってしまうのである。

もちろん、これは三角関係の展開例の一つでしかないし、ハッピーとなり、Bさんの好きな人:Dくん(←Bさんのことが好き→両想い)が出て、Aくん、Bさん、Cさん、Dくんの4人が仲良しグループになる可能性もある。

人間が人間を好きになるのに理由は要らない、という言葉(まぁ文章だけど)がある。ならば、人間が人間を嫌いになるのに理由は要るのだろうか。

↑の例のように、自分の好きな人が好いている人のことが嫌い、という理由もあるだろう。もちろん、他にも人間が人間を嫌いになる理由はあると思う。↑の例は嫌いになる例の一つ。

それらの嫌いという概念を無くすにはどうすればいいのか。嫌いと思える部分を無くす(直す)ことか。先入観を持たないことか。

それら嫌いになった理由を無くしたり、直したりすることも大切だと思う。それで嫌いから好き(友達として)になれたなら一番良い。

しかし、人間というのは…私も全然わかってないけど、そう簡単に嫌いなものを好きに出来るわけじゃないと思う。例えば、トマト嫌いな人間が料理の達人と呼ばれるほどの腕を持つ料理人のトマト料理を食べ、「美味しい!」と思ったからといって、すべてのトマト料理、もしくはトマト自体を好きになるか、と言えば、そういうわけじゃない。寧ろ、その料理人のトマト料理は好きだが、他のトマト料理、トマト自体は無理、というのが多いんじゃないだろうか。

まぁトマトと人間を一緒にするのは違うかもしれないが。この場合、その料理人のトマト料理は好きだが、他のトマト料理、トマト自体は嫌い、というのが、その人間のこういう部分は好きだが、こういう部分は嫌い、となるのである。

つまり、部分的に好きになることもある。その部分的に好き、というのを全体的に好き、に出来ればそれも良い。

しかし、嫌いから好きになる、又は部分的好きから全体的好きになる、それらが出来ないならば、嫌いな部分を無くす(直す)ことよりもそこは開き直るべきじゃないのか。別にトマト料理を食べなくたって死ぬわけじゃない、とか嫌いな人を好きになって友達にならなくたって他に好きな人や友達はいる、と。

そのように開き直って生きていくことも術の一つだと思う。冒頭で書いたように“万人に好かれることは不可能”だし、“誰しも好き嫌いは存在する”のだから。

この主張を書いてる私も当然、万人に好かれてるわけじゃないと思う。“と思う”と柔らかいクッションを置いてみたわけだが。そして、“自分を嫌っている人がいても自分を好いてくれる友達はいる”とも思う。

でも、私は自分を嫌う人が少なからずいたとしても、

人間を好いていたいと思います。

だって、“万人に好かれることは不可能”でも“万人を好くことは可能”なのだから。そうすれば、万人が万人を好き、万人が万人から好かれるようになるんじゃないだろうか。もちろん、万人を好くというのは恋愛としての形じゃなく、友達としての形。その中に一つ、恋愛としての形の好きがあるのだろう。

というわけで今日は“人間の好き嫌いについて”の主張を書いてみました。

そうそう、Aくん、Bさん、Cさん、Dくんの例は例ですから。そして私は

トマト大好き。

ですよ。

では終わります。さよ〜なり〜♪

楽に行こう!!